教授対談

統合デザインとは何か

永井 一史 / 菅 俊一

統合デザイン学科では、「統合デザイン論Ⅰ・Ⅱ」と呼ばれる学部向けの講義があります。この講義の中では、統合デザイン学科に所属する教員がそれぞれ、これまでの経験から統合デザインという考え方について語ります。2024年度の初回は、学科設立11年目を迎えた統合デザイン学科のこれからを改めて考えるため、永井一史教授と菅俊一准教授による対話からはじまりました。

 

永井:統合デザイン学科には、せっかくこれだけのいろんな専門性を持った先生方がいらっしゃるので、お互いがもっと対話をしていくと授業自体がアップデートできるのではと考えています。今回は統合デザイン学科のこれからを考えていく上でのトライアルという意味でも、僕の考えてるデザインと菅先生の考えているデザインを違う立場からクロスさせて、そこからにじみ出ることをそれぞれが学んでもらえればと思っています。まず現在、デザインはどんな状況にあるのかっていうことから、話し始めましょうか。

– 「デザイン」という言葉の浸透

 

菅:まずは自分にとってのデザインとの関わりから話していくと良いと思うのですが、元々デザインの外側にいた人間から見ていると、大学生の頃は日常の中にデザインという言葉はほとんどありませんでした。大学に入る前年の1998年にAppleがiMacを発売されて話題になり、その辺りで語られていたくらいで、日常的にデザインという言葉を当たり前に見かけたり使ったりするようになったのは、その後のここ10〜15年ぐらいなんじゃないかと思ってます。デザインの考え方が、造形に関わるものだけではなく、思考のプロセス自体にも価値があるということが世の中に広まったことで、ビジネスをはじめとした社会の中にデザインという言葉がだいぶ浸透したような気がします。

 

永井:そうですね。美術大学やデザインに関わる産業の中だけでデザインという言葉が流通していた状態から、NHKの教育番組のような場所でもデザインってキーワードが使われて、さらにその周辺である一般的なビジネス、社会や学校教育の方面にまで広がって行きましたよね。コンピューターが生活の中に入っていく流れで、人間起点でどうテクノロジーとかコンピューティングを使いやすくするかっていうところで、インターフェースという重要な機能としてデザインが広まっていった。この前ちょうど調査したんだけど、既にデザイン思考は一般的なビジネスマンの6割ぐらいの認知があって、驚きました。その背景には、今までの事業のオペレーションの効率化で成長できた時代から、行き詰まっていて、何か新しいことをやらなければという背景の中で、デザイン思考が注目されてきた流れがあるかなと思います。

 

菅:デザイン思考も、こういった言葉で定義されたことで多くの人に広まっていった感じがあるんですけど、思い出してみると、僕が昔勤めていた会社でやっていた商品開発プロセスが、デザイン思考で言われているようなことに非常に似ていたんですよ。社内では全くデザインとかデザイン思考っていう言葉は使われていなかったんですが、米国で実践されていたマーケティング理論を基盤として、実践的にカスタマイズされていった方法論があったんです。それで、僕はデザイン思考って言葉やその内容を後で知って、あれ?これ結構一緒だなと思ったりしていました。だから、人間が知性をはたらかせて新しいものを作ろうとしている現場では、実は名前が付く前からそういうことをしていたんじゃないかなとも思っています。

 

永井:デザイン思考のオリジンみたいなのは、例えば日本の川喜田二郎という文化人類学者が考えたKJ法など、日本にルーツもあるんじゃないかっていう説もありますよね。日本はメーカーの中で部署を超えて、みんなで一緒になって、ワイワイガヤガヤとコミュニケーションをとりながらものづくりをしてきたこと、今でいうところの共創が強みだった。なので、そのようなことは行われていたかとは思います。ただ、デザイン思考は、誰もがこれを学べばデザインに関わることができるんだっていうように、デザインの概念を広く開放した。多くの人にとって、今までのロジカルシンキングとかビジネスのやり方とかでは、到達できない違う方法が示されたことで、学んでみようとか、デザインと自分がつながったことが大きいと思います。

 

菅:そうですね。

 

 

– 拡張されていくデザイン

永井:これはデザイン産業の遷移というか、拡張の図です。元々はグーテンベルグの印刷が発明されて、コミュニケーションデザインという軸ですごく発達したわけです。その後、バウハウスの運動などを通じて、製造と設計が分離していくわけですよね。特にアメリカの産業の勃興とともに、自動車や家電などでデザインが発達していく。その後はコンピュターの発達とともに、インターフェースもそうだし、サービスなどに展開していく。現在は形のないもの、サービスのデザインっていうのも非常に重要視されています。それと同時にデザイン領域はシステムに拡張されている。システムっていうのは簡単に言うと、とても複雑なもの。例えばビジネスもそうですよね。川上から川下というか、目的の設定からサービス・プロダクトの開発から顧客接点とかそういうことをいろんな視点で考えデザインを考えていく必要がある。あと教育そのものや、政府など、地方自治体や国ですね。北欧やイギリスだと、政策立案の中にデザインがすごく入り込んでいる。課題がどんどんどんどん複雑化していくことに対応していってるのかなと思います。

 

菅:対象はものから人になるわけですよね。グラフィックやインダストリーの時代から、インターフェースになっていくと対象が人になる。そこから広がって、地球全体のシステムを考えるということが、直近の状況かなっていう感じです。以前はデザインの対象に人がいなかった。物をどう作るかがまず中心にあって、生産効率であるとかコストであるとか、精度やクオリティみたいなものが入っていって、そこからコンピュータシステムの発展とともに現れた概念だと思うんですけど、インタラクションの概念が出てきたところで、人間と物の関係みたいなものを特に注力するようになった。1人の人間が物とどう対峙するところから、グループで、つまり1人じゃなく2人とか、100人、200人、1万人、1億人、50億人になったときに、その関係性がどうなるのかを考えるようになっていった。それを司っているのは政府とか組織とかビジネスとかって話だと思います。

 

永井:もちろんグラフィックもプロダクトも、ユーザーはいるんだけれども、確かにインターフェースはそういうのと微妙に違う気がします。

 

菅:コンピュータの発展と共に、インターフェースという概念が定義されて普及していったわけですよね。コンピュータは最初はCUI(Character User Interface)、つまりキーボード入力による文字だけでコンピュータを操作していて、そこからGUI(Graphical User Interface)が出てきてマウスなどで視覚的に操作ができるようになった。その後、スマートフォンが出てきてマウスを使わず直接画面を操作するようになって、今では行動をコントロールするみたいなことが重要視されてきている。技術の発達の流れは、デザインの拡張に大きく影響していますよ。印刷技術や工業化による大量生産という話から始まって、インターネット化によってさまざまな機器がネットワークに繋がってシステムが構成されるようになった結果、技術的側面からそのシステム自体を直接デザインすることができるようになってきたわけですよね。

 

永井:そうですね。システム的なものを、ある程度制御できる可能性がある。例えば先端のデザインで言うと、システミック・デザインという考え方があって、トランジションデザインもそうなんだけど、地球環境をどうするとか、そういうことを扱っている。一つの問題に対して解決する時に、様々な人や組織や考え方をある程度分析的にマップ化して、レバレッジポイントという、ここにリソースを投下したら、全体に影響するんじゃないかっていう点を見つけて動かしていたりすることが研究されている。システミックの考え方など、かなりデザインに対して幅が出てきたのが現在だなという気がします。

 

菅:システミックに捉えられるようになってくると、あちらを立てればこちらが立たずみたいな状況に対してどうするかって問題が出てきますよね。結局全てを綺麗に解決することはできないから、解決すべき優先順序をどこに落ち着けるかって話に立ち向かわないといけない。その時にデザイナーは、さまざまな領域に精通していることとか、経営者をはじめとした意思決定者とデザイナーとしてどう関係を構築できるのかといったコミュニケーション能力がより重要になって来ていると思います。

 

永井:デザインの広がりっていうことをちょっと違う視点から触れたいと思います。六本木の東京ミッドタウンに多摩美のサテライトがあるのを知っていますか?TUBという名前の場所で、そこでいろんな企画を行っていて、その中でTAMA DESIGN UNIVERSITYというのを行いました。簡単に言うと、様々なデザインの先端的な方に登壇いただいて50講座、講義をしてもらったという企画です。菅先生も、深澤先生も話していただいたので、機会があれば覗いてみてください。

永井:そのときに使ったマップがこれなんですけども、右上からエンジニアリング、その後は、それからフィロソフィー、サイエンス、エデュケーションと。その真ん中にデザインを置いて、そことの接点、例えばデザインとエンジニアリングだったらデザインエンジニアリングだとか。哲学とデザインだとか、そうやって拡張しているデザインの一番フロンティアの人たちに話をしてもらいました。さっきのシステムの話もそうかもしれないんですけれども、デザインの拡張っていうのは多方面で起きているってあらためて感じたんですが、その辺についてはどうでしょう?

 

菅:結局デザインは常にさまざまな分野を接続していくような存在だと思うんですよね。社会の中で複雑な問題を解こうとする時には、一つの分野の知見だけでは何とかなるなんてことはないですよね。でもデザインを軸にすることができれば、エンジニアリングと哲学を繋げて考えることができたりする。それぞれの領域のデザインをどう接点を持たせていくのかが重要だということをみんな感じ始めていて、デザインの拡張が起きているという状況だと思うんですが、そのヒントがTAMA DESIGN UNIVERSITYでは示されていたように思います。ただ個人的には、美大自体が扱っている問題だとも思うんですけど、アートとデザインの関係をどのように考えるのかということは、今後より考えなきゃいけないものなのかなっていう感じがします。

– 今までそして、これからの統合デザイン学科とは

 

永井:ちょうど統合デザインを立ち上げる時に深澤先生と2人で、Webマガジンの企画で対談したんです。その時にデザインというのは繋がってるというものなんだっていう話もしたし、社会と大学ってのは結構分断されてるんだけど、そういうことも繋げていきたいっていう話をしたような記憶があるんですけども。立ち上げから10年経って、その中での変化はどんなことですか?

 

菅:我々が実践してきた教え方というか、教育方法が、だんだんみんなも当たり前だなって思い始めているような気がしています。「色々なことを学ぶ」という視点は新しいからやっていたわけではなくって、むしろ本質というか、本流や源流は色々なことを学ぶということだったのだから、ちゃんとそれをやった方がいいという考えですよね。新しい学科として立ち上がったから、新しい方法を作ったみたいになっているけど、本当はその王道というか本流みたいなものをやってきたつもりが僕らにはあります。設立して10年経ってくると、卒業生は6期までで700人ぐらいいますよね。そのぐらい社会に出てくると、少しづつ浸透してきたっていう感覚が出てきました。まだまだ理解されない部分はあるかもしれないですけど、これからの10年では、このやり方が王道で今後の基盤になるんだよ、みたいなつもりでやらないといけないなっていうのがありますね。

 

永井:それは教育内容としてもそうですね。考えさせる部分、思考や視点の持ち方などを学んでいかないと、これからのデザイン教育は難しくなってくるんじゃないかと思います。そういう意味では先行してこの学科では教えている。あと統合デザイン自体の認知が上がっているのかどうかは、自分では良くわからないですが、確実に言えるのは、卒制のレベルが毎年上がっているということです。それっていうのはやっぱりある意味の教育というか、その統合デザインのカルチャーを含めた一つの成果なんじゃないかなっていう気がします。菅先生はその辺はどうですか?

 

菅:そうですね。何をもって学科の成果とするのかっていうのは、とても難しいじゃないですか。たとえばどのぐらい就職したかであったり、就職先とかをみんな気にするんですが、本当はそれって成果でも何でもないですよね。その瞬間にどこに行ったかということと、学んだことがどう活かされているのかは全然関係ないじゃないですか。だからどんな状態になってたら我々は統合を立ち上げた成果とするんだろうか、というところが、改めて議論しないといけない重要な問題だと思うんですよ。なんか定量的になりにくいですよね。よく言われたりするのは、例えば深澤先生じゃないですけど、世界的なデザイナーを排出したから素晴らしいんだみたいな話がありますけど、もちろんそうなってくれるのは嬉しいですが、それだけではないですよね。有名な人がたくさん出たからいいんだとか、そういう話でもないような気がするんですよ。

 

永井:確かに重要な視点ですね。昔、中村勇吾先生が、例えば市役所に勤めてデザインの力っていうのを発揮してくれるようなそういう人もいいねみたいな話をしていて共感したのですが、さっきの話みたいに、デザインという役割自体を社会の中で拡張していくっていうことも統合の一つの成果かもしれないし。

 

菅:そうですね、あとは今わざわざ「統合」と言っているけど、もうそういうことを言わなくて済むみたいになったときがある意味一つの成果だと思うんです。今は、そもそもデザインは一つのものなのに、いろいろな理由で、領域を分けて学ぶみたいな話になっていたのに対して、もう1回取り戻そうという活動をしていて。皆がそれをわかっていれば本当はいわなくていいはずなんです。だけどあえて言っているみたいなところがあるので、それがもう必要ないねみたいな話になったときが一つの達成といえるなと思います。

 

永井:もしかしたら、20年後30年後の美大には、統合的な教育をしているデザイン学科しかないかもしれない…

 

菅:あともう一つは、統合的に考えられるっていうことは結局何ができるのか。統合的に考えたからこそ、こういう社会が生み出せるとか、こういう生活が出てきたんだっていう実例を示す必要があるなと思っています。それは卒業生が将来生み出していくものでもあるとは思いますし、学科としても、研究機関として世界の理想像を提示するみたいなこともしないといけないだろうと思います。

 

永井:自分自身も思うのは、まさしくこの世界っていうのはもちろん分断がないし、この見えてる世界は一つだけれども、そうは言っても、いろんなものが存在するじゃないですか。この教室でいったら机や椅子、統合デザイン論っていう授業のカリキュラムもあれば、学校っていう制度もあって、ありとあらゆるものは様々な要素の集合でできている。そのときに、思想や考え方としてこれが一つであるっていうこと自体はわかるんだけれども、それをデザインするっていうのは、どういうことなのか。というか、我々にとって理想的なその状態っていうのは何なのかっていうことは考えなければいけないというのは思います。

 

菅:そうですね。それは難しいですね。人間の脳のことを思い出してみると、視覚野とか運動野のように、特定の機能を持った部位が決まっている(機能局在)わけですが、一方で、個別に処理した情報をもう1回統合して、情報を作り出すという能力もあるわけですよね。さらには脳の一部が損傷してしまった時に、その周辺や脳全体が損傷した部分の機能を担うということもあったりする。そういうモデルから考えると、個々の要素のデザインと統合的思考の両方が必要だと思うんですよ。たとえば、コップをデザインするというのは個々の要素の造形として捉えることもできますが、そのコップを具体化させてテーブルの上に置いてみた時に「なんか違うな」みたいなことを思ったりする。そうすると、コップ自体を作り直したり、そのテーブルのためには別の物を選び直したりしないといけないわけですよね。その「よさ」を追求していく試行錯誤のプロセスみたいなものが大事だと思うんです。つまり、固定化していくという考え方自体を改めなきゃいけなくて、常に「よい」というものは変化し続ける動的なものなんだっていう前提でつくるということを考えないといけない。ある状態をデザインするっていうことは、たとえば印刷物でも立体物でも、static(静的)なもう定着してしまって変化できないってイメージがあるんですけど、姿形が状況に応じて変化することを前提とした図版や物体を考えてみる。理想は固定された何かにあるのではなく、変化し続けられるという可能性そのものにあると考えていくことが必要何だろうなと思ってます。

 

永井:とても菅先生的視点で面白いですね。多分プロダクトデザイナーは、ものをデザインしているので、例えばこの教室の中で、より調和させるには、このテーブルは既存品のテーブルじゃなくて、やっぱオリジナルで作った方がいいんじゃないか。椅子もデザインしよう。今光が差し込んで少し眩しいですが、みんなが心地よくあるにはどうしたらいいか。我々が座っているのが見えるように、教室に傾斜をつけた方がいいんじゃないかなどを考えるんだと思う。それはそれで終わりなく広がっていく。

 

菅:気にする範疇を広げられるかどうかってことだと思うんです。普通は一つのことを行うと、そのことしか気にできないわけですよね。でも色々なことを経験したり知識を持っていれば、違いを感じて気になってくると思うんですよね。どうしたら自分が気にする、どうにかしたくなる範疇を広げられるかっていうところが鍵になると思っているので、統合の1・2年生のベーシックのカリキュラムでも、とにかく色々なことを経験してもらっているわけですよね。制作技術を獲得するということだけではなく、経験することで色々なことを気にしないと気が済まない状態になっていく。そうすると、これを直すんだったらこっちも同時に直さないと変だよねとか。1から10まで全部気になる状態があると統合的に考えるということに繋がっていくんじゃないかなと思っています。だから多分、今後統合のカリキュラムも、システムとか、そういったものにもさらに拡張していくことができそうな気がしています。

 

永井:まさに一つ一つに対しての見方の深度というか、解像度って言い方もあるけど、それを上げていくっていうことがやっぱりベースとして大事なのかなっていう気がして、多分そういうことに無関心で生きている人だったら全然気にならないことが、ペン一つ買う時にもやっぱこだわった方がいいだろうとか、そういうことの積み重ねが、今の自分の身の回りの世界っていうのを生んでいると思う。僕もコロナ中に家で食事することが多くなって、うちの奥さんは結構料理が好きでこだわって作ってたら、普段から美味しいものをより食べるようになって、外で食べるとなかなか美味しく思えないっていう非常に不幸な状態が生まれてきてしまって(笑)。そういうことは起こり得るんですね。みんながここで学ぶことでリテラシーが上がって、デザインの感覚が冴えわたると、いきなり校舎出た段階からウッってなって、許せないみたいな悩みが深くなるってことあるかもしれない。

 

菅:でも、そういった気持ちが必要なこともあると思うんですよ。良くするということはすごいエネルギーがいることなので、どうしても許せない!と思うくらいの意識の高さが、社会や生活や自分自身に対しても向けられることで、みんなが「何となくこんなもんでいいか」って見逃してきたことを乗り越えられるような気がしています。

 

永井:さっき1年生の授業で話したんだけれども、たとえば旧石器時代を想像したときに、最低限の衣装、住居と何か煮炊きする器や斧、槍みたいなものがあった。その状況と現代を比較すると、かなりいろんなものがアップデートされていますし、物に限らずとも、たとえば以前は暴力も正当なものとされていたけれど、今では法律で規制されたりしている。なんでそうなっているかと言うと、人は本能的に、少しでも現状を良くしようという気持ちがあるんじゃないかという気がするんですよね。それが文明とか文化っていうものをここまで推し進めてきた。人間が本能的に持っている「より良くする」っていうことと、デザインっていうことは同じなんじゃないかなって僕は思う。なのでやっぱりデザインっていうのは、一部の人の特殊なものではなく、とても本能的だし、みんなが潜在的に持っている、ある種の欲求みたいなものじゃないかなという気がするんですけど、それはどうですか。

 

菅:それで言うと、多分さっきのインタラクションの時代までは欲望の時代だと思うんですよ。欲望が動機になって、より心地よくとかそういう感じで来た。で、おそらくこの先って、理性で欲望をコントロールしなきゃいけないんですよね。たとえば米国とかだとスマートフォンではなくDumbphoneって呼ばれる音声とテキストメッセージくらいしか出来ないようなデバイスが増えてきている現状がありますよね。その裏にはみんながどこかで今のスマートフォンに対して、便利さの裏にある過剰さみたいなことに気づいているということですよね。でも今出てきているDumbphoneが独特なのは、デバイスとして美しい姿をしていて、みんなが所有したいと思える感じになっているところが面白いなと思っています。こういった過剰さを欲望していく気持ちの矛先を変えてしまうデザインの在り方みたいなものが課題になりそうだなっていうのは何となく思います。

 

永井:なるほど、面白いですね。僕がその前に言った人間に内在するものじゃないかって言ったのは、そこも含めてですね。今の世界的な状況とか、紛争だとかを見たときに、やっぱそういうことに心を痛めて、より良くしていこうっていうことだったり、これまでの経済拡張の時代からある種制限するようなこと、シェアリングエコノミーもそうかもしれないですけど、自分で所有する必要ないんじゃないかっていう価値観とかも含めてのことだと思います。僕もちょうど多摩美のプロダクトの濱田教授とすすめているプロジェクトがあって、つくるデザインより、すてることをデザインしていこうというのをやっています。これまでの人類のツケみたいなものを今、どうやって解決しようかなっていうステージに向き合ってるのかなっていう気はします。

 

菅:この学科は割とそれが当たり前に行われていくような気がしています。統合的に考えるっていうことは、ただ綺麗なものや美しいものを作っていけばいいってわけではなくて、その美しさを持ったものが何によって支えられているのかも含めて考える必要がある。もう既にこの世界で生きてるってだけで、社会と関わってしまっているわけなので、社会の一員として、デザイナーという視点から何ができるかということを広い視野から考えられるかどうかは本当に重要だと思います。

 

永井:美意識を大事にするっていうのも当然だし、美しいものを大切にするのもそうなんだけど、ちょっと言い方わかんないけど、自分の回りが綺麗なもので満たされてればいいってなっちゃうと、今みたいな社会だとか世界だとか、地球だとか人類だとかっていう視点からは遠ざかってしまう感じがある。でもこういった話は、実は統合デザインの中でもまだあまり語られてないのかもしれない。でも世界の美術大学のフロンティアっていうのは、みんなそういう話をしてるんですね。気候変動がどうだとか、戦争はこのままでいいか、脱植民地化して少数民族の知恵をどう現代に生かしていくのかとか、社会の話を結構している。こういった視点がまだ統合には足りないなというのは感じていたけれど、今の話から統合デザインの考え方を拡張していくことで、それができるのかもしれないなと思いました。

 

菅:今の日本社会だと「社会や地球のため」っていうと難しいって感じてしまうかもしれないですが、当たり前にそこまで繋げて考えられるようになってくると、多分ちょっと違うもの、新しいものが生まれてくるって感じがするんですよね。じゃあどうやってそこに行けるのかっていうと、常に学び続けるしかないなっていうのは確かにあるんですよね。だからたとえば歴史を学ぶっていうことは、今の戦争がなぜ起きてるのかっていうのを理解することにもつながりますし、物理や化学だったら、今我々が使っている道具とか資源というのは、どのようにできてるのかっていうのを理解するのに繋がったりするわけですよね。そういうことで言うと、デザインやものを作るだけじゃなくて、大学に入るまでに学んできた様々なことやこれからまた勉強できること、講義とか本を読むとかいろんなことで得られる知識は全部デザインに関わってくると思うので、みなさんにはそういう意識でいて欲しいなって思いますよね。

 

永井:統合デザインでみんなに、本当に学んで欲しいなと思ったのは、クライアントからポスターをつくってくださいっていう時代ではないんじゃないかなって。そういう仕事ももちろんあるんだけど。むしろやっぱり自分で世界を感受して自分の視点をカタチにして、社会に広げていくことが大事。なので自分と世界の向き合い方をきちんと考えるっていうことが、僕の考える統合なんです。今日の授業の目的として、もう一度統合をアップデートしたいなっていう気持ちがあるわけなんですが、菅先生はどうですか?

 

菅:結局物が何のために存在するかっていうと、自分の知覚的な心地良さとかも、全部頭の中で感じてることじゃないですか。何か行動するとか判断するっていうのも情報を得て理解するのも、頭の中で起きてることですよね。そこに対して働きかけるっていう意味では、本当は作る形態には差がないはずなんですよ。私たちは図版や物体を作っているのではなく、極端に言うと脳にインプットする情報を作っているんだって思ってるんですよね。

 

永井:もしかして究極はメタバース派ですか!?

 

菅:そういうものも全部含めてですけどね。そもそも造形から僕は入っていないというバックグラウンドがあるからそう見てるってこともあるんですが、認知科学とか神経科学を学んだ時の影響もあるんだと思うんですが、自分が何かを作ったりしようというときも、やっぱりその人が見たときの行動とか頭の中の変化を起こす手がかりを作りたいと思っているんですよね。だからそもそも領域に分けて考えるという発想自体がなかったりするんです。我々が今ここで統合的にやるっていうところの意味は、先ほど話した人間の知覚を基盤として考えてみることでも説明できるんじゃないかなと思ってます。

 

永井:なるほど。つまりいわゆる我々が共通認識としている世界っていうのは、分断されてなくて融合したものである。でもそれを融合してるという認識自体は人の認知であるわけだから、当然これは全部統合されているものだよねって。

永井:僕はデザインの対義語っていうのはね、ネイチャーじゃないかって思っていて。なので先ほどの旧石器時代の話も、そこから知性を積み上げてきた文明と文化っていうのがあって、その全部がデザインなんじゃないかっていうふうに考えている。だからデザインは人が人であることを追求する行為だと思うんです。先日、さきほど話したTUBの活動で佐藤卓さんに、そもそもデザインって何だろうっていう講義をお願いしたんです。そのときにデザイン概念っていうのは政治、経済、医療、教育、福祉、科学技術、芸術、デザインとアートと並列になっていた。でもこれからはそれら全部と暮らしの営みに入っていくものだと話をされていた。これはまさしく統合の思想とめちゃくちゃ近い話なのかなと思いました。

 

菅:今の話は、これまでもデザイナーがクライアントと関わるっていうのは、こういうことだったと思うんですけど、おそらくいろんな場面でまだ、デザインが必要なんだけどそこに踏み込めていない、気づいていないっていうことはたくさんあるはずで、そういう人たちと、どう関係を作っていくのかっていうが大事な気がしますね。ただ仕事を待っているだけではそれは難しいので、どうやってデザイナーの側から関わっていくのかという活動が今後必要になってくるような気がするんです。だから大学としては、そのはたらきをより加速するような、プロジェクトの立ち上げ方から考えるっていうのが必要になりそうな気がしますよね。

 

永井:これまではデザイン×産業だとか、デザイン×メーカーだったりとか、デザイン×美術館で展覧会ポスターを作るだとか、そういう関係だったと思うんだけれどもここで示されているのは、今まであんまり入ってなかった領域っていうところがポイントですね。だから教育でも、デザイン教育って美大の中には存在しているんだけど、これまで初等教育だとか中等教育の中で、美術の時間自体が減らされている現状があって、教育の中にデザインっていうのは、あまり入っていなかったりする。医療でも、デザインの必要性が言われるようになったのは結構最近のことだし、ましてや政治なんかには全然デザインが入ってないと思う。これからこういう領域に入っていかないと、世の中が良くなっていかないんじゃないかなっていう気はする。ちょっと繰り返しになるんだけど、まだ統合デザインってあんまりこういう感じがないじゃないですか。それはそれで素晴らしいと思うんだけれども。もうちょっと関わり方はアップデートしてもいいんじゃないかなっていう気もしています。

 

菅:そうですね。だから少しずつ授業を増やしたり、プロジェクトの中でもそういった取り組みを増やして行こうとしていますよね。でも4年間っていうのはちょっと短いのかもしれない。大学院まで学んで来てようやくそこに到達できるような気もします。まずは学部の4年間で、ある程度基礎的な力というか自分で作れる状態になった上で、残りの2年間で社会に向けたプロジェクトに取り組んでいくという流れがうまくできると、ちょっと変わっていくような気がします。

 

永井:みんなまだ2年生で、どこまで4年間の中で到達できるのかわからないけれども、こういったデザインを取り巻く社会の状況や必要性に対して関心を持ったりしている学生もいるんじゃないかなと思うので、そんな学生の志向も、受け止めてあげられるようにしたいですね。そして大学院も、深澤先生が中心になって新しい試みをしていこうと議論をしているところです。今日のこの授業もそうですが、10年経って、その基盤ができたからこそ、次のステージを目指していけるといいと思います。菅先生、今日はおつかれさまでした。

永井 一史(Kazufumi Nagai)

多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業後、博報堂に入社。
2003年、HAKUHODO DESIGNを設立。
企業・行政のブランディング、コミュニケーションデザインを手掛けている。

 

菅 俊一(Shunichi Suge)

1980年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。

認知的手がかりの設計による行動や意志の領域のデザインを専門としており、近年は線や点といったわずかな手がかりだけで動きや質感を感じさせるための表現技術や、視線による共同注意を用いた誘導体験、制約のデザインによって創造性を引き出す問題設計技術についての探求を行なっている。